B'zのギターが好物のすべりこみのおとめ座。ベイスターズとドラゴンズ応援してマス。
2006/07/24 (Mon) 01:38
これから書くことはちょっと長くなるし、自分の記憶用でもあるので、興味ない人はスルーしてください。
7/22(土)夕方、まちゅが伯母の家の前の通りで車に轢かれて死んだ。
3歳と9ヶ月くらいだった。
その知らせは7/23(日)の午後18時頃で、母からの「まちゅが昨日車にひかれて死んだ、今日、荼毘に付した」という電話だった。
2002年の12/27、当時専門の2年生だったわたしは、年末年始を実家で過ごそうと静岡に向かって東名バスに乗っていた。
そのとき、母から携帯に電話で「妹2が子犬みたいのを拾ったんだけど、どうしよう?」という報告をされた。
妹2が家の近くの路肩の側溝に、泥だらけの猫とも犬とも鳥ともつかない小さい生き物がプルプルしてるの見つけ、一旦はスルーしたけど母に報告したら、持ってきてみなさいということで拾ってきたんだと。
泥まみれで臭いし正体不明なので、シャワーで洗い流してみたら犬っぽいのが出てきたのだそう。
わたしは自分勝手にも「ソレの名前はまちゅね!」と性別もわからない子犬の名前を決めて、わくわくしながら実家へ向かった。
一目でどうもそれはパピヨンぽい子犬で、おちんちんもついてないのでたぶんメスだろうとなり、そのまま名前はまちゅで定着。
それから、母、わたし、妹1、妹2の4人は、その子犬に夢中になった。
なによりかわいかったし、犬を飼ったことがなかったから嬉しくてよく一緒に遊んだ。
一方、噛み癖で大切なmacのアダプタを噛まれちゃってこっぴどく叱ったり、トイレの場所のしつけに四苦八苦もした。
時期が冬で子犬はすぐ風邪をひいて、わざわざ近所の獣医さんに連れていったこともあった。
(このとき、先生に生後2ヶ月くらいのパピヨンだねって言われてパピヨンとほぼ確定?する)
その後、4ヶ月(生後半年)ほどたつと、まちゅはよく吠えるようになった。
キャンキャン甲高い声で鳴くのですぐに周囲にバレてしまい、当然ながらアパートの大家さんに「一家揃って出てくか犬だけどっかやるかしてくれ」と言われてしまい、母の姉、伯母の家に預けることになった。
(伯母の家は一軒家で、昔からシーズーを飼っていたりして、犬を喜んで受け入れてくれた。)
たったの4ヶ月しか一緒にいなかったけど、わたしはまちゅが大好きだったし、いつまでも家族だと思っていた。
2003年の秋に上京して働き始めてからも、ことあるごとにまちゅのところに顔を出して30分でも遊んだ。
まちゅはすっかり伯母と伯父になついて、元気に暮らしているみたいだった。
人見知りしないで、誰にでも甘えてまとわりついて愛嬌をふりまいた。
伯母の家には月曜日に必ずお客さんが来るらしいのだが、いつのまにかまちゅはそれを覚えて、毎週月曜の朝になるとおもちゃやボールを持って、いつもその人を玄関の上がり端で待っていたという。
いまの旦那とつきあうようになってからも、年に2~3回は旦那と一緒に東名高速道路をぶっとばしてまちゅに会いに行った。
最初は犬を怖がっていた旦那だったけど、少しずつまちゅと仲良くなっていった。
今年の5月(残念ながらこれがまちゅと最後の遊びになってしまうんだけど)に訪ねたとき、まちゅはわたしなんか見向きもしないで、旦那とばっか遊んでた。
それから、旦那は本気でまちゅを引き取りたいと思い始めたようで、時間があればペット可のマンションを探しはじめた。
一方、わたしはまちゅがすっかり伯母の家のコになってしまったと思っていたので、無下に引き離すことはしないで、できれば子供を産むなら1匹引き取りたいなと思っていたんだけれど。
そして冒頭に書いたようにまちゅの死は、荼毘に付した後で知らされた。
いつものように、家の前の駐車場で一人で遊ばせていたときのこと。
駐車場はそこそこ交通量のある大きな通りに面していて、いつもならまちゅは決して駐車場からは外に出なかったんだそう。
でも、7/22の夕方だけはなにかがあって道路に飛び出し、そのまま車にはねられたらしい。
まちゅを跳ねたのは女性で、一旦車を止め、飼い主が周囲に見当たらないまちゅの体を道路脇に置き、とにかく目の前の家(伯母宅の道路挟んで向かいの家)の方に、「飼い主が見当たらないのでここに置いておきますね」と言って去ったのだそう。
その後、まちゅの帰りが遅いことを心配した伯母が様子を見に外に出て、道路の向こうにまちゅの亡骸があったのを発見した、とのこと。
その後、気が動転した伯母はとりあえずわたしの母に連絡し、二人で(多分)慰め合った後、それぞれ一晩明かし、翌日の朝9時、母、母の彼、伯母の3人で荼毘に付した。
母曰く、「外傷はなく死に顔はとてもキレイで、棺桶には●●(わたし)が小さい頃にあげたお気に入りのぬいぐるみや、よく遊んでいたゴルフボールなどを一緒に入れてあげた」
そして、この一連の出来事をわたしが報告されたのは、よりによってこの日の夕方18時頃。
タイムラグをうんぬん言う前に、わたしと旦那はいてもたってもいられず車を出した。
清水(地元)に到着するころにはまちゅのお骨がある火葬場は閉まっているだろうけど、せめてお花だけでも、と府中駅の下にある花屋さんに駆け込んだ。
泣きながら「湿っぽくない感じで、派手めに、かわいい花で花束を作ってください」ってお願いした。
花束だけ持って、旦那に車を走らせてもらった。
府中から東名のインターにたどり着くまではなかなか骨で、もとより道が混むし、この日は近くで花火大会が開催されて通行止めも多く、厚木まで下のルートで行くことを余儀なくされる。
それまでも、何度か迂回させられたりして旦那は泣きながら何度も毒づいてた。
わたしは音楽聞きながら必死に他のことを考えていたけど、ふとまちゅのことを思い出しては何度も泣いた。
やっと厚木から東名高速道路に乗ると、旦那はいつもより20Km/hオーバーくらいで車を走らせていた。
わたしはあいかわらず必死で音楽を聴いていたのだけど、秦野中井ICのあたりでふと旦那が左手をグーパーやってるのに気づく。
「どうしたの?」と聞くと、「左手が熱い」と答える。
肩でもこったのかなぁと思い、旦那の左肩とか腕に触れていると「いるかもしんない」と旦那。
よくわかんないので聞き返すと、「まちゅがいるかもしれない」と泣きながら言う。(※旦那はちょっとそういうのがわかるのです)
嘘か本当かわからないけど、わたしはそれで涙が止まらなくなって、その左手をちゃんと握っていた。
清水についたのは22時頃で、伯母宅には、まちゅの面影の残るものは跡形もなく、まちゅのゲージと寝床用のクッションみたいのだけぽつんと残っていて、それを眺めているだけで涙が出た。
夕方からそこにいるという妹1が、わざわざ東京から来たわたしを気遣ってくれたり、まだ混乱しているっぽい伯母を慰めたりしていた。
わたし達はなすすべもなく、夜も遅いので花束を渡し、まちゅがよく遊んでいたゴルフボールを一つもらって清水を後にした。
偶然にも、そのゴルフボールは、今年の5月に最後にまちゅと旦那が遊んだゴルフボールだったことに気づいたのは帰宅してから・・・。
1日たって、まちゅについて言えること。
まちゅはみんなから可愛がられて愛されていたし、いっぱいいっぱい遊んだ、きっととても楽しかったはず。
まちゅが生きてる間に辛かったことは、小さい頃捨てられてドブでプルプルしてたときと、あたしに怒られたときと、最後、逝く瞬間くらいだったと思う。
(まちゅは即死だったようで、下手に瀕死の重傷を負って絶命するまで苦しむよりは全然よかったと思う)
まちゅをはねた人、放し飼いにしてた伯母に対しては、なんの怒りもありません。
なるようになるしかなかった、と自分を納得させているだけかもだけど・・・。。
まちゅがいなくなったことについては正直とても辛いけど、そんなに悲しむ必要もないと思ってる。
なぜなら、まちゅは向こうでも、向こうにいる人とか仲間のわんことかにゃんこときっと楽しく遊んでるだろうから。
さっき、旦那が居間の隅になんかがいるのを感じた。
たぶん、まちゅだろう、とのこと。
49日まで、こうやってちょくちょく遊びに来るんだろう、来てほしい。
たかが4ヶ月一緒にいたくらいで大げさだと思う人もいるかもしれないけど、わたしと旦那は、離れていてもまちゅを家族だと思っていました。
まちゅの写真はこちら↓から見れます。(全部じゃないけどほとんどまちゅです)
http://www.flickr.com/photos/mechiko/sets/1447416/
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